登場人物

作兵衛の孫(三男の長女)/福岡県飯塚市在住

緒方惠美(おがた・えみ)

祖父・作兵衛の思い出]

母の仕事がある時は、私とすぐ下の弟は祖父母の家に預けられていたんです。その頃は縁側の方に机があって、そこで祖父は絵を描いていました。私達には、祖母がちゃぶ台を出してくれて、お絵描きでもしときなさいって、新聞の広告の裏が白い紙をくれました。私と弟がお絵描きをしてる。その向こうで、祖父は一生懸命絵を描いてる。

井上冨美(いのうえ・ふみ)

作兵衛の三女/福岡県田川市在住

[炭鉱差別]

––– 結婚される時、お父さんが炭坑で働いていたという事で何かありました?

それはありました。いい所から何ぼでも貰い手があるって、目の前で言われたです。今でも、この近所の人でも、面と向かって作兵衛の事を「タンコタレやろが」って言う人いますよ。

自分の父親褒めるわけじゃないけど、褒める程の人間でもないけど、日本人で初めて世界遺産になってるからね。だから、大したもんだなと思ってね。

井上忠俊(いのうえ・ただとし)

作兵衛の孫(三女の長男)/福岡県北九州市在住

[言えなかった思い]

長年、自己紹介の時に「福岡県の北部エリアで商売やってます」とか妙に濁して、筑豊だとか田川だとかいうのを言わずにいたような気がしているんですよね。当時炭鉱で苦労した人たちのおかげで今の私たちの生活があるってことを考えれば、何ら恥じることはないんじゃないかな…と思うようになったのは、作兵衛の残したものがユネスコの記憶遺産になったからだったのかもしれない。心の中では恥じることはないと思いながら、どこかに言わずにおこうとしていた自分に対して、反省しているのかな。

記録作家

上野英信(うえの・えいしん)

1923年(大正12)~1987年(昭和62)山口県生まれ。船舶砲兵として配属された広島で被爆。復員後、京都大学を中退し、福岡や長崎の炭鉱で働く。森崎和江らと文学運動誌「サークル村」を創刊。1964年、家族を連れて筑豊に移り住み、「筑豊文庫」を開設。炭鉱労働者の自立と解放のための運動拠点であり、多くの人々が交流する場でもあった。主な著書に「追われゆく坑夫たち」「日本陥没期」「地の底の笑い話」「写真万葉録・筑豊」など。作兵衛さんの絵を世に出すことにも力をつくす。

[筑豊文庫開設宣言]

筑豊が暗黒と汚辱の廃墟として滅びることを拒み、未来の真に人間的なるものの光明と英智の火種であることを欲する人びとによって創立されたこの筑豊文庫を足場として、われわれは炭鉱労働者の自立と解放のために、すべてをささげて闘うことをここに宣言する。

上野朱(うえの・あかし)

古書店主・エッセイスト

上野英信の長男/福岡県鞍手郡在住

記録作家の父・上野英信、母・晴子のもと、「筑豊文庫」に集まる人々の中で育つ。著書に「蕨の家」「父を焼く」

[筑豊を食い荒らす]

筑豊っていう名称を、どうしても消したいという人達がやっぱり多いんでしょう。消す為に「暗い」という言葉をかぶせるわけですね。筑豊は暗い、炭坑は暗い、旧産炭地は暗い。でも本当は「後ろ暗い」んですよね、筑豊を食い荒らした人間にとって後ろ暗い。「後ろ」が必ず付いてるんです。そこに住んでる人間は、別に暗いと思って住んでるわけじゃない、暗く生きようと思って仕事したり、生活をして来たわけじゃない。作兵衛さんはそういう事をああだこうだ言わずに淡々と、子や孫の代に自分達の暮らしを知らせてやりたいなという事で、絵を描かれた。

菊畑茂久馬(きくはた・もくま)

画家/福岡市在住

日本を代表する現代美術家の一人。連作『ルーレット』で国際的な評価を受ける中、作兵衛さんの絵に出会い衝撃を受ける。自ら編集した作兵衛さんの画集「王国と闇」を世に出し、その後、沈黙を破り大作『天動説』シリーズを発表。美術界で唯一、作兵衛さんを画家として評価し続けた。

[画家としての作兵衛さん]

描いても描いてもね、この背景にある悲しみというようなもの、大海原のようなこの痛切な気持と、自分の人生を振り返っての過酷な労働…。下手と言ったら下手で。稚拙すぎると言えばすぎる。でも、なぜだかたまらんのですよ。本当に絵を描きたくて、不純物が全然ないまま描いてるから…。じっと見ていたら涙が出てた。僕の画業からくる状況がはねかえって、いよいよもって作兵衛さんがいわば僕の画業の前に、仁王さまみたいに立ちふさがった。

森崎和江(もりさき・かずえ)

作家・詩人/宗像市在住

朝鮮から引き揚げた後、閉山が進む筑豊の炭鉱町に1950年代後半から住み続け、女性解放などをテーマに60冊もの本や詩集を出す。最初の本が「まっくら 女坑夫からの聞き書き」。他に「闘いとエロス」「奈落の神々 炭坑労働精神史」「からゆきさん」など。

[女たちと炭鉱]

森崎和江「まっくら 女坑夫からの聞き書き」より

けどなあ、坑内下がるときは思いよったあ。―またあの子に逢えるじゃろうか―と。帰って抱いてやれるじゃろうか、もうあの子は母親を亡くすのじゃなかろうか、抱いてもらえん子になるのじゃなかろうか、と思わん日はいちんちもなかったなあ。坑内ちゃあぶなかとこじゃけん。いのち知らずの仕事じゃけ。

橋上カヤノ(はしがみ・かやの)

筑豊炭田の元おんな坑夫

1910年(明治43)愛媛県の山あいの村に生まれる。9歳の時、一家で筑豊へ。19歳で結婚、夫とともに坑内で働く。8人のこどもを産むも、すぐに一人を失い、戦後は貧しさの中で、6人の子どもを次々に亡くす。筑豊の炭坑が閉山した後は、失業対策事業の建設現場などで働いた。夫と一人残された息子に先立たれるも、98歳まで一人暮らしを続けていた。本作製作中の2015年に105歳で亡くなった。

[炭鉱の思い出]

(テボを見て)懐かしいなぁ。石炭を入れる入れ方があるとですよ。上からバラバラ~っと、ザルで流し込むように入れてね。炭車の車道があって、はこ函がある。函が高いから台に乗って片足あげてこうして落とすんですよ。初めは皆、函の中に石炭と一緒に入りよったです。先山さんに声かけて、引っぱってもろうたって。私はそんな不調法な事はせんやったけどね。

渡辺為雄(わたなべ・ためお)

常磐炭田の元炭坑夫

「みろく沢炭砿資料館」館長/福島県いわき市在住

1926年(大正15)生まれ。常磐炭田発祥の地、みろく沢の小さな炭鉱で20年間働く。閉山後に始めた自宅の養鶏場を改造し、1989年に、個人で炭鉱資料館を開く。中には、カンテラやツルハシなど、実際に使われていた150点を越える道具があり、坑内の厳しい労働の一端に触れることができる。炭鉱の歴史を伝える「ヤマの語り部」活動もしている。

[炭鉱は全国に]

カーバイトカンテラは60年ぶりで点灯しました。見ると若い頃、坑内に入ったことを思い出します。朝6時に、20度くらいの傾斜を下がって行って、今日はどこを掘っていくかというのを頭で計算してね。一家5人も支えていたもんですから。弁当と、カンテラと、ツルハシの矢先なんか背負ってね、下がったもんです。

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